『田園の詩』NO.99「『荒城の月』よ永遠に」(1999.6.22)


 6月になって早々に梅雨入りとなりました。例年なら、溜池の水が出るのに合わせて順番
に田圃の水取りをするのですが、今年は雨水が豊富で田植え準備はどんどん進み、最初の
土曜・日曜には一家総出の田植え風景があちこちで見られました。

 最近は機械化が進み、山里の狭い田圃はアッという間に田植えが終わってしまいます。
昔のような「早乙女が裳裾ぬらして玉苗ううる」光景は見受けることができなくなりました。

 そのためか、私達が数10年前に学校で教わった『夏は来ぬ』の歌が、現在では音楽の
教科書から外されていると聞いています。同じような理由で、『村の鍛冶屋』も歌われなく
なりました。

 その他、見受けなくなって久しい光景(それも特に田舎の)が謳われている歌が学校の
教科書から消えていくようです。

 この度、私達大分県人にとって親しみのある滝廉太郎作曲の『荒城の月』を、音楽の
教科書に掲載することが、出版社の自由選択となりました。

 滝廉太郎が学生時代を過ごし、作曲のイメージを膨らませたという史跡≪岡城≫のある
豊後・竹田市では、「『荒城の月』を教科書に残す運動」を起こし、署名活動をしたり、
教科書出版社や文部省などの関係機関に働きかけを行っています。

 そもそも、この歌を自由選択にした理由は何なのでしょうか。「失われた光景」という
範疇にははいりません。

 現に、竹田の≪岡城≫は、建物は失われているものの、見事に積み上げられた石垣が、
その上にそびえ立っていたであろう本丸などを想像して余りある迫力で残存しています。
このような≪荒城≫は日本中に数多くあり、今後も存在し続けるでしょう。


      
     隣の日出町には海に面して暘谷城(ようこく)がありました。ここも石垣だけが
     残っており、本丸跡は小学校になっています。左奥下は別府湾です。
     ちなみに、滝廉太郎の家系は、ここ暘谷城の日出藩の家老職を勤める家柄でした。
     滝家の墓所も日出町の寺にあります。


 また、この詞は土井晩翠が故郷の仙台城をイメージして作ったとされています。となると、
『荒城の月』は竹田市だけの歌ではなく、全国の≪荒城≫のある地元の歌にもなる訳です。

 私は、大分県人としてでなく、日本人として、『荒城の月』をいつまでも教科書に残し、
歌い続けてほしいと切に願います。           (住職・筆工)

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